SECTION ONE 2.戦後36年、6.25戦争とソウル・88オリンピック

戦後36年、6.25戦争とソウル・88オリンピック

 

1945年8月15日、私たちは光復を成し遂げたと思いました。けれども、わずか5年後、共食いの悲劇(朝鮮戦争)を迎えることになりました。
朝鮮戦争は光復とは何の関係もなく起こりました。朝鮮戦争は、これまでの国際社会にあったすべての論理が民主主義と共産主義の中に圧縮されて噴出したものです。

この国は朝鮮戦争しか体験しなかったでしょうか?
いいえ。歴史的に数多くの戦争がありました。けれども朝鮮戦争は、それらの戦争とは大きな違いがあります。

朝鮮戦争は内においては我々を正しく悟らせるための教訓があり、外に対しては人類の平和の礎を築く歴史の中で重要な意味を含んでいます。
つまり、単純な共食いの戦争ではなく、第二次世界大戦の延長であり、民主主義と共産主義を集約した戦争だったのです。

それでは、民主主義と共産主義という理念はこの国で生まれたのでしょうか?

いいえ、もちろん違いますね。

国際社会で生まれたこの理念対立を国際社会が解決できないので、この国でその理念を一緒くたにして戦争を起こし、それを解決するように課題が与えられたのです。この国に入ってきたのは、意味があります。この国だけが解決できるからなのです。ところが、この問題がいまだに解決されず、国際社会は紛争の中にあります。

二つの理念が突然この国に入ってきて、人々が民主主義と共産主義のそれぞれに分かれて大きな戦争を経験しました。この時、お互いに銃口を突き付けて反対勢力と戦っただけでなく、兄弟にも、隣人にも銃口を突き付けて大量の血を流しました。朝鮮戦争を通して、この国、韓国が理念紛争の核になってしまったのです。

手のひらくほどの小さな国で兄弟同士の戦いが始まりました。この時、力のあるものがやってきて「離れなさい!」と言ったら、何事もなく終わると思われました。ところが、その戦いがどんどん広がっていきました。全世界の若者たちが韓国に入って来て、命まで捧げるようなことを誰が予想できたでしょうか? こんなに小さな小さな国で、大変大きなことが起きたのです。

国を荒廃させるところまでいかなければ、自覚できない国民だから、屋根一つも残らずすっかり掃き捨てられました。あれほどこだわっていた鎖国政策も、どうにもならない状況にまで追い込まれて大戦争を終えました。

戦争で廃墟になったこの国には食べる物もありませんでした。ですからある国がジャガイモをくれればありがたく受け入れ、また、別の国がチョコレートをくれると言えば受け入れなければなりませんでした。誰が何を与えようが無条件に受けざるをえない状況になるほど、すべてをなくしてしまったのです。一言で言えば、私たちは完全に乞食になったということです。

それで、それまで自分は偉いと思っていた人、自分の主義に合わない党派との争いを繰り広げていた人が、皆すっかり静かになりました。いくら自分は偉いと言い張っていても、腹ぺこなら食べ物を手に入れなければいけないし、寒ければ着るものを手に入れなければなりません。そして小麦粉を一袋受け取ると同時に思想が一つ一緒に入り、チョコレートを一つもらうと同時に他の思想がまた一つ入り、ジャガイモを一袋受けると同時にまた別の思想が一つ入ってきたのです。

この国は、人類が持っているいろいろなものを「援助」という名目で全て受け入れることを余儀なくされました。知らず知らずのうちに鎖国政策を捨て、国際社会のすべての文物をただ受けるしかない状態になったのです。このように大きな意味が、その中に隠されていたのです。

それでは、その思想がどれくらいかかって入ってきたでしょうか? 戦後36年にわたって全て入ってきたのです。

最後の理念戦争である朝鮮戦争が起きる前の36年間、まず日本に首を絞められ、必死に生きようとしました。その間に、日本は私たちの指導者の衣服を剥ぎ、結び上げた髪を切り、姓も変えさせました。
このように、私たちの国が植民地にされて迫害を受けたことにも、日本がその役割を担うことになったことにも、重要な意味があります。

万が一、何の経験もなしに、植民地支配に慣れてない状態でいきなり第二次世界大戦が起き、朝鮮戦争を迎えたとしたら、どのようになっていたでしょう? 私たちはそのような厳しい状況に決して耐えられなかったと思います。ですから、日本は私たちが苦しみに耐えられるように、数百年前から少しずつ私たちを鍛えて免疫力をつけさせたのです。

そしてこの国に民主主義と共産主義という二つの理念の影を落として、私たちは休戦しました。私たちだけでなく世界中が、民主主義と共産主義に分かれて銃刀で戦うことを一時停止しました。それ以来、この国は民主主義と共産主義に分断されています。

そしてソウル・オリンピックの前まで36年間、国際社会のすべての思想が援助と共に韓国に入ってきました。

その後、どんなことが起こったでしょうか?

私たちの国で、国際社会全体を迎え入れる行事が開かれました。それが私たちの国の首都ソウルで開かれたソウル・88オリンピックです。世界で一番速く走る人、一番遠くに投げる人など、1位になる人がみな私たちの国に入ってきました。それまでは、オリンピックを行っても理念の対立で参加国が半減するなど、いくつかの理由で多くの国がしっかりと一か所に集まりませんでした。けれどもソウル・88オリンピックの時は集まれる国がすべて集まり、優秀なアスリートがそれぞれの国の代表となり、私たちの国に国際使節としてやってきたのです。

また彼らがオリンピック会場に入場するときも特別なことがありました。

それぞれの各国の旗を高く立て、「スーダン!」とアナウンスされて入ってくると、人口が何人で、地下資源はどんなものがあり、国土は何キロ平米あるのか、といった自国の情報を持って入ってきたのです。本当に不思議なことがこの韓国で起きたのです。

ソウル・オリンピックまでは、各国が自国の持っている情報を守るため、大きな努力を払っていました。徹底的に秘密にしていたので、その情報を得るために、国同士で情報戦が繰り広げられました。ところがソウルオリンピックの時、国際的に鍵を閉めていたドアを一番最初に韓国に開いたのです。それで、国際社会の膨大な情報をなんの力も使わずにそのまま座って受け取ることができた。この情報さえあればできないことがありませんでした。

そんなことをちゃんと知っていたら、私たちはこの材料をどのように使ったらいいか研究したことでしょう。けれども、私たちはどうやって使うのかわからず、集めておいただけでした。自国の情報を、なぜ私たちに与えたのでしょうか? その理由は、知恵のある者がそれを世界のために正しく使うようにということだったのです。私たちはそれを理解し、各国にプラスになることはなにか、人類に利する道はなにかを正確に教え、導いていく指導者にならないといけませんでした。

ところが、情報を受け取ったのに何をもらったかもわからず、片隅に放置し、あることさえも忘れていたのです。

このように、国際社会は援助と譲歩という名目で、今後私たちが仕事をするために必要なすべての力と知識を与えてくれました。
ところが、私たちはこれをどのように使ったでしょうか? ソウル・オリンピックの後、「暮らし向きがよくなった」と言って海外旅行に行き、おいしいものを食べ、ゴルフをしました。根本的なことも知らないまま、お金をたくさん使ってよく遊びました。そうやって、むやみやたらに使った結果どうなったでしょうか?IMFが突然やって来たのです。IMFは「そうしていたらダメだ」と私たちに与えた警告でした。

国際社会から受けたものを還元しなかったために、私たちはこのような困難を経験したのです。

光復70周年を迎えたこの時点で、私たちは国際社会に還元すること、それと同時に民主主義と共産主義を融合させた一つの理念を創出しなければなりません。そうしなければ朝鮮戦争は終わらず、人類の解放はもちろん、人類の平和も訪れることはないでしょう。